2008年12月7日日曜日

“考える”ということの害悪

小さいころから、しょっちゅう言われなかっただろうか。

「よく考えて」
「1たす1は何? よく考えて」

1+1が2であるのは、考えても出てくるものではない。それは教わって初めて憶えるルールだ。その次に1+2を憶えて、世界地図のそれぞれの国の位置を憶えて、漢字を憶えて…。

ルールが悪いというのではない。この世で生き延びるには必要な情報だからだ。

だが、「よく考えて」ということには害悪がある。「どうして怒られたのかよく考えて」と言われて、教師や母親の機嫌の悪かった理由、友達から仲間はずれにされた理由など、わかるはずがない。でも、よく考えた結果、他人の顔色を必要以上にうかがうことになったり、その理由をあれこれ考えて、夜眠れなかったり…。

これは大人になっても続く。

上司に嫌われた理由、親が病気になった理由、年取っていく理由、考える必要はない。考えるだけ時間の無駄だ。それは自分の解決できない事柄だし。

よく考える必要ななかったのだ。怒られたのなら、同じことを二回しなければいい。同じことを違うようにみせればいいだけだったのだ。“考える”が重要ではなく、“行動”が重要だったのだ。