2009年6月28日日曜日

エコノミークラス症候群

職場の空間はお世辞にも広いとは言えない。

足を伸ばそうとすると、机の下に置いたファイルにぶつかる。椅子を引こうとすると、後ろの壁にぶつかる。横に椅子をずらすと、ロッカーにぶつかる。

昼休みはチープなカフェで過ごす。

こちらはいっそう狭い空間。一人当たり50cm平方メートルだろうか。椅子は小さく固い。20分も座っていると体はコチコチだ。

先日、信号が青から黄色に変わる途中の広い交差点を、走って突っ切ろうとしたら、足が突然痛み出した。

飛行機のエコノミークラスにしょっちゅう乗るような出張の多いサラリーマンではないのに、すでにどっぷりとエコノミー症候群です。

パーティションで一人一人区分けされた職場で働く、高級サラリーマンになりたいものだ。

2009年6月21日日曜日

心のよりどころ――the support of the heart

というのかどうか、わからないけれど、今のところ東京タワーを毎朝見て通勤している。

生まれ育って故郷を出るまでの18年間、毎朝韓国岳を見てすごした。大学の6年間は桜島があった。

突然上京して何もない。富士山はいまや東京からは見えない。荒川や江戸川は、川なので地上を流れていて、すぐ近くまで行かないの見えない。心もとない日々だった。

東京タワーを見ながら通勤できるようになって、なんだか安心したのだ。赤と白のシンプルなデザインもいい。

遠いところからも見える高い山が、なぜ信仰の対象になるのか、わかったような気がする。何百年も何千年もたってもいつも変わらないもの、だからかもしれないし、物理的に背中を支えてくれるような錯覚を覚えるのかもしれないし…。

東京タワーが何百年も持つかどうか不安だが、とりあえず、変化の激しい東京にあっては、皇居の次くらいには変わらないものだ。

2009年6月14日日曜日

言の葉、言葉、言語、Language

言葉がなければ人間は考えることはできない、ということは、今では哲学的には常識だけれど、一般の人がそう考えることはなかなか難しい。

ところで、昨夜、あるいは今朝目覚め時に見た夢を覚えていますか? 覚えていたとしても、説明できますか?

いざ、思い出そうとすると、まるで綿飴の塊のようにとけ去って、何も残らなかったりする。

これは、夢が脳のリハビリの残骸で、もともと言語化されていなかったから、じゃないかと思う。リハビリの残骸にいちいち言葉を当てはめようとしても、砂糖を水で洗うようなものだ。

ところで、コンピュータにも言葉はある。あるので、何かコンピュータにさせようとするなら、コンピュータ言語、機械語というのだろうか、で書いてやらなくちゃならないそうだ。

機会言語を与えると計算するコンピュータと言うものも、もちろん人間の作ったものであるから、言語がなければ、計算=考えることはできない。

ちょっと面白いね。

2009年6月7日日曜日

時間について

カントは『純粋理性批判』で、「時間と空間は人間の思考の枠組みである』というようなことを書いている。

そうか。ということは、「時間」というものが、りんごや猫や人間と同じレベルのものではなく、言ってみれば、人間の妄想かもしれないね。

「過去」「現在」「未来」について、もっともらしく私たちはしゃべったりするけれど、それにいったいどんな意味があるのだろう。

「過去」について、老人は自分の自慢話をしたがるし、「未来」については、子供たちなどは、「将来何とかになる」とかいう作文を書かされたり、「いい大学を出て一流企業に勤めなさいね」と親から理不尽にも期待されたりするけれど、また、本人も「今いっぱい勉強すれば、将来は遊び放題で楽ができる」と誤解したりする。

でも、「現在」はおろそかにしていいのだろうか?

「過去」は「現在」が過ぎ去ったものだし、「未来」は「現在」の積み重ねだ。

朝起きて、顔を洗い、ご飯を食べる、外を見ると、すずめが鳴いている。朝日がきらきらまぶしかったり、木の葉がつやつや鮮やかに輝いていたりする。空は透明な光に満ちているのだ。

また、「あのときもっと勉強しておけばよかった」とか「あのとき違う人と結婚していれば」とか、後悔してなんになるのだろう。後悔することで「現在」を侮辱している。

そして、もっと時間がたつと、また、今やらなかったこと、選ばなかったものを後悔するのだ。「現在」を惨めな「過去」に変えることを人生にしてしまう。

私たちは過去や未来に生きているわけではなく、今、この瞬間を生きているのにね。