2009年8月30日日曜日

『ジェイン・オースティンの手紙』

1970年代までは、どの家にも状差しというものがあり、親兄弟、親戚、知人などから来た手紙が差し込まれていたと思う。電話料金は高く、よほどのことがない限り、長距離電話はしなかった。

いまや、世界中どこにでも、瞬時で届く電子メール、というものがある。相手がインターネットに接続できる環境にあることが前提だけれども。

ジェイン・オースティンの生きた時代には、当然、電子メールはおろか、電話すらなかった。彼女は、姉や兄、友人たちに膨大な手紙を書き、日常生活のこまごまとした事柄などを、伝えている。

それを読むのは、実に面白い。まるで、彼女の時代にともに生き、最近あった出来事を知らせてもらっているかのような錯覚を覚える。自分のものを含めた恋愛、結婚、病気、死別、その合間に、シャツを縫ったり、ドレスを注文したり、帽子につける飾りについてあれこれ悩んだり。

まとまった小説ではないのに、これほど面白い書簡集は、読んだことがない。

2009年8月23日日曜日

猫の家族

現在、6匹の猫がいる。

年齢順だと、まりい(十三歳)、ピーター(十一歳)、点子(七歳)、もも(四歳)、ブー(三歳)、フー(三歳)。

ピーターは黒トラの甘えん坊のいばりん坊だが、まりいにだけは頭が上がらない。そのまりいは、ももが苦手。ももは、オス猫の癖にきれいな赤虎の美人風で、ほっそりとしているが、ブーとフーの母親を演じ、二人を支配下においている。あわよくば、まりいをも自分の娘にしたいとおもっているようだ。

ピーターも、ももが苦手で、自分の座りたい場所にももが座っていると、一応脅すが、その脅し方がいかにも形式的で、すぐあきらめる。時々ももにおいかけられて、ひゃあひゃあ、逃げ回っている。

ブーは大柄の黒トラで、子猫のときに、柿太(パートタイム飼い猫)につれられてやってきたときが、そのときも、子猫にしては異様に大きかった。今では一番の大猫だが、一日中外を走り回っているので、スリムになった。

フーは、猫にしかなついていない。ももが一番好きで、家にいるときはべったりもものそばにいる。

そういえば、ブーもフーも、おととし十八歳で死んだ梅子が大好きだった。自分たちの母親だと思い込み、そのころはももより梅子の体にへばりついていた。

梅子が死んだとき、ブーはずっと梅子に付き添っていて、その後しばらく元気がなかった。ブーが人間になつくようになったのは、その後だ。

柿太のほかに、もう一人パートタイムの飼い猫がいる。うーだ。うーと柿太は、寒い冬以外は夜しか来ない。ご飯を食べて、ブラッシングして、気がついたときはもう外出していることが多い。

柿太に連れられてやってきたブーだが、最近柿太の父親代わりのうーとうまくいっていない。理由はわからない。

2009年8月16日日曜日

父の写真

父が立っているのは第二次大戦中の南方の小さな(多分)島である。大きな黒トラの猫を抱いて、口元だけ笑っている。穏やかな表情で、とても戦争中とは思えない。飾りのない地味な帽子に、半そでシャツ。

この写真は、十数年前、火事にあったとき焼けてしまった。そのころでさえ、セピア色に退色し、ふちが少し欠けていたから、もし、今焼けずに残っていたとしても、ぼろぼろだろう。

もう一枚は、想像上の写真。

黒いオープンカーに乗り、ハンドルに手をかけて笑っている。後部座席には、ドイツシェパードが二頭、陽気に笑っている。かれらはこれからレストランに食事をしに行くところだ。こちらは、もう少し大きな島にいたときだろう。

父は海軍のパイロットだった。戦争中の話を酔っ払ってよくしたが、戦闘の話ではなく、猫や犬たちの話だ。今となっては、それでよかったのだと思う。

2009年8月13日木曜日

夏休みと三文小説と…

久々にまるまる1週間、休暇をとった。

子供の夏休みのようだ。

何が、というと、休暇中に少しでも英語を練習しなければ、と言う強迫観念に脅かされつつ、三文小説に現を抜かすところが。

休暇の始まる少し前に図書館に三文小説を仕入れに行った。

コンピュータゲームやらインターネットやらの隆盛で少しは利用者が減ったかと思っていたが、昔と変わらず、子供たち(学生)が勉強部屋代わりに使っていたり、妻に追い出されたのか、サラリーマン風の若いのやら年取ったのやらの男性たちが雑誌をめくり、にぎやかだった。

昨年もこうして三文小説を大量に借り出し、読んだが、今年はなぜか、去年ほど面白くない。

なぜだろうか。

普段は寝る前にジェーン・オースティンとかアン・タイラーとかの、いわゆる純文学を、繰り返し繰り返し、読むが、そのせいだろうか。

成功した三文小説、娯楽小説、は、読者を楽しませるために読者の期待を裏切らないために、あらゆる工夫を凝らしているはずだ。それで面白くない、とは私の趣味が変わったせいなのだろうか。

たとえば、アン・タイラーの『あのころ私たちは大人だった』は、50歳を過ぎた女性の、春から冬にかけての話だ。それほどとっぴなことは起こらない。ずいぶん昔に亡くした夫との生活、そのはるか昔に別れた最初の恋人とのあれこれ。

義理の娘たちの結婚、出産、義理の叔父の百歳の誕生日、などなど。

でも、読み捨てるべき言葉はひとつとしてない。どれもこれも、作者の中から苦労して取り出され、調理された極上のものだ。たとえ翻訳と言うフィルターを通していても。

しかし、本当のところ、三文小説と純文学を分ける決定的なものは、何なのだろうか。