2009年8月13日木曜日

夏休みと三文小説と…

久々にまるまる1週間、休暇をとった。

子供の夏休みのようだ。

何が、というと、休暇中に少しでも英語を練習しなければ、と言う強迫観念に脅かされつつ、三文小説に現を抜かすところが。

休暇の始まる少し前に図書館に三文小説を仕入れに行った。

コンピュータゲームやらインターネットやらの隆盛で少しは利用者が減ったかと思っていたが、昔と変わらず、子供たち(学生)が勉強部屋代わりに使っていたり、妻に追い出されたのか、サラリーマン風の若いのやら年取ったのやらの男性たちが雑誌をめくり、にぎやかだった。

昨年もこうして三文小説を大量に借り出し、読んだが、今年はなぜか、去年ほど面白くない。

なぜだろうか。

普段は寝る前にジェーン・オースティンとかアン・タイラーとかの、いわゆる純文学を、繰り返し繰り返し、読むが、そのせいだろうか。

成功した三文小説、娯楽小説、は、読者を楽しませるために読者の期待を裏切らないために、あらゆる工夫を凝らしているはずだ。それで面白くない、とは私の趣味が変わったせいなのだろうか。

たとえば、アン・タイラーの『あのころ私たちは大人だった』は、50歳を過ぎた女性の、春から冬にかけての話だ。それほどとっぴなことは起こらない。ずいぶん昔に亡くした夫との生活、そのはるか昔に別れた最初の恋人とのあれこれ。

義理の娘たちの結婚、出産、義理の叔父の百歳の誕生日、などなど。

でも、読み捨てるべき言葉はひとつとしてない。どれもこれも、作者の中から苦労して取り出され、調理された極上のものだ。たとえ翻訳と言うフィルターを通していても。

しかし、本当のところ、三文小説と純文学を分ける決定的なものは、何なのだろうか。

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