2009年10月18日日曜日

言語は社会的なゲームである

たった一人で森の中に住んでいるとしたら、たとえ、成人するまで人間の社会で教育を受けたとしても、言語は必要ないだろうと思う。

言語はコミュニケーションの道具であるが、道具以上の道具である、というような意味のことを、野矢茂樹氏は『哲学・航海日誌』(春秋社刊)の中で書いている。

靴も衣服も、体を守る道具であり、飛行機や車や鉄道も、移動のための道具である。だが、単なる道具では済まされない。これらの道具こそが人類の築き上げた文明の核心だ。

ましてや、言語は人間が、単なる道具、と言い捨てて済まされる道具ではない。

言語はコミュニケーションのための道具であるが、コミュニケーションと言う限り、他人を必要とする。日々、私たちは他人の言語行為を受け止め、評価するが、同時に自分の言語行為も他人の評価が必要なのだ。そうでなければ、コミュニケーションは成り立たない。

「言葉にならない思い」などというものは存在しない。言葉にして初めて、他人の評価を受けられるようになるからだ。言葉にならない、のは、道具をよく使いこなせていないからかもしれない。

2009年10月12日月曜日

閑話休題―同時代人たち

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)は1889年4月26日に生まれ、1951年4月29日に死んでいる。

私のもう一人の敬愛する哲学者、思想家のシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)は、1909年2月3日生まれで、若くして1943年8月24日に死んだ。

二人はほぼ同時代人だといえるだろう。

私の好きな作家の森 茉莉も、1903年1月7日生まれで、長生きして1987年6月6日に死んでいるが、
第二次大戦前、ヨーロッパに行き、ドイツにも立ち寄っている。

確か同時期にシモーヌ・ヴェイユもドイツに旅行していたはずだ。どこかで出会わなかっただろうか。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir:1908年1月9日 - 1986年4月14日)も同時代人だが、あまり好きではない。サルトルもなんだか中身がないような気がするのは、私の偏見かもしれないが。

エコール・ノルマルでサルトルの同級生だったポール・ニザンはいい。政治に翻弄されて、若死にしたのは残念だ。生きていればもっとたくさん面白い小説を残してくれただろうに。

2009年10月4日日曜日

Wittgenstein――メモその8 対象の論理形式

『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。

事実から論理空間へのジャンプは、事実を対象に解体し、それを再構成するプロセスが必要だが、「事実を対象に解体する」とはどういうことだろうか。

2.01231 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捕らえなければならない。

野矢氏によれば、ここで「外的な性質」と言われたものが、普通私たちが「性質」と呼んでいるものらしい。

つまり、「赤い」トマト、「太った」ミケ、など。

一方「内的性質」とは、「それがないと対象の同一性が失われ、それゆえその性質をもっていないと想像することができない」もの、すなわち「時間的空間的位置」、なんらかの「色と形と硬さ」。

「内的性質」は「対象の論理形式」だそうだ。

そこで、

2.01231 改 対象を捉えるために、たしかに私はその性質を捉える必要はない。しかし、その対象のもつ論理形式のすべてを捕らえなければならない。