2009年9月27日日曜日

Wittgenstein――メモその7

『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。

3.001 「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうると言うことにほかならない。

よって、「思考可能性の限界と像の可能性の限界は厳格に一致」する、と結論付けたが、さて、それでは、像と言語はどういう関係にあるのだろうか。

「像と言語とは同じものである」(としてもたいした危険はない)と野矢氏は言う。

引越し先のレイアウトを紙に書いた例が出たが、机を意味する紙切れ、本棚を意味する紙切れ、それらの配列が部屋の家具の配置を意味しているなら、「こうした像の使用をどうして『言語』と呼んでいけないことがあるだろう」

もっとも重要な点は、「成立していることの総体であるこの世界」(現実)から「成立しうることの総体である論理空間」へのジャンプは、「言語が介在するということである」。

言語と言うのはやっかいである。まず、私たちは何かを考え(すなわち思考し)、それについて言葉をあてはめていく、と考えている人が多いのではないだろうか。そうではなく、言語が先なのである。言語のないものについては、考える、ことはできない。

夢がそうだ。夢は脳の活動の残照なので、あとで思い出そうとしても、言語で救い出せない。その端からぼろぼろ零れ落ち、霧散してしまう。

2009年9月23日水曜日

Wittgenstein――メモその6

指標になるように、Wikipedia から以下を抜き出して表示してみた。

1. Die Welt ist alles, was der Fall ist.
2. Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.
3. Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke.
4. Der Gedanke ist der sinnvolle Satz.
5. Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsaetze.
6. Die Allgemeine Form der Wahrheitsfunktion ist : [\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)]
7. Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.

以下は英訳。

1. The world is everything that is the case.
2. What is the case (a fact) is the existence of states of affairs.
3. A logical picture of facts is a thought.
4. A thought is a proposition with sense.
5. A proposition is a truth-function of elementary propositions.
6. The general form of a proposition is the general form of a truth function, which is: [\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)].
7. Where (or of what) one cannot speak, one must pass over in silence.

Wittgenstein――メモその5

『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。

繰り返しになるけれど、
2.141 「像はひとつの事実である」

像=論理空間=言語を代理物とする可能的結合=事態。
しかし、言語もまた、インクのしみとして、のどから出てきた音声として、「世界の中で生じるひとつの事実」だ。

そこで、論理空間は世界を含むが、世界はまた、論理空間を含んでいることになる。

だが、野矢氏は、これはパラドクスではない、とする。
「私」がいる部屋を含んだ建物を取り囲む絵が描かれた紙が、部屋の中にあるというにすぎない。

「思考」が「像において世界の可能性を試みるもの」であるなら、

3.001「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。

よって、「思考可能性の限界と像の可能性の限界は厳格に一致」し、
「像と思考は同じもの」(と言っていい)であるから、思考の限界は言語の限界となるのではないか。

2009年9月22日火曜日

Wittgenstein――メモその4

『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。

なかなか進まない。でもこの難解でシンプルな文章には心地よさがある。

さて、

2.01改「事態とは諸対象の『可能的』結合である」

を、野矢氏は再び言い換える。

2.01 改の改「事態とは諸対象の代理的結合によって表現されるものである」

この「表現されるもの」が、(言語による)論理空間だ。この論理空間は、どこか別の次元にある世界ではなく、事実ではない「(成立していない)事態というのは、現実の代理物によって像として表現される以外、生存場所をもたない」。

この「像」は、

2.141 「像はひとつの事実である」

となるのだ。

むむ。なぜなら、「言語もまた、世界の中で生じるひとつの事実である」からだ。

2009年9月20日日曜日

Wittgenstein――メモその3

『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。

1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない

これを、野矢氏は次のように言い換える。

世界は事実の総体であり、固体、性質、関係の総体ではない
事実は、もの、つまり、人間の眼前にあるもの、個体(たとえば、猫のミケとか犬のポチとかの個体と、その性質、白い色とか三毛とかの性質、三毛は座布団の上にいるとかポチは犬小屋にいるとかの関係性の寄せ集めではない、と言いたい。

つまり、生き生きとした事実の総体が世界なのだ。個体、性質、関係は結合している。丸ごとの事実。

そこで、「可能的な事実」としての「事態」でも諸対象(個体、性質、関係)は結合していなければならない。

2.01 事態とは諸対象の結合である

これは、言い換えられて、
事態とは諸対象の『可能的』結合である
となる。

むずかしいなあ。

事態は、現実の結合、事実ではないので、「言語」を介した「箱庭装置」だと言われる。
野矢氏は、例として、引越しのときにあらかじめ紙に書いておいた新居の間取り図をあげる。
「箱庭装置」を媒介する「言語」は、その意味ではなく、あくまで「音声」や「文字」(見ようによってはインクのしみ)という代理物として、見なければいけない。

何を書いているのかわからなくなってきたが、まあ、これはメモなので。

2009年9月14日月曜日

Wittgenstein メモその2

『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。

「世界は成立している事柄の総体である」

英訳のほうがすっきりしているなあ。

The world is all that is the case.
(http://plato.stanford.edu/entries/wittgenstein/#TLP Pears/McGuinness translation)

「世界」(
The world)は現実世界のことだ。あらゆる生物は人間も含め、「ひとつの世界に生き、このひとつの世界にしか生きていない」が、人間には「思考」するというやっかいな能力がある。つまり「人間は可能性を了解している」。

ところで、それでは思考とは何かと言うと、「成立しうる事柄の総体」で、こちらは「論理空間」と呼ばれるそうだ。


そして、「論理空間の限界が思考の限界」だ。

2009年9月13日日曜日

Wittgenstein メモ その1

『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。

まずは「序文」から。

『論考』は思考の限界を画定した。

私たちが考えうる限界はどこにあるか。どうやって線引きするか。
考えるとは何によって考えるのか、言語によってである。
そこで、「思考の限界は言語においてのみ引かれる」のである。
つまり、「言語の限界は思考の限界と一致する」。

言語の限界を画定するのが、『論考』という小さな本なのだ。

言語の限界が画定されると言うことは、どういうことか。

つまり、あの有名な言葉にたどり着くのだ。
「語りえぬものについては、ひとは沈黙せねばならない」

ウィトゲンシュタインと言う人は、おそろしく潔癖な人だったんだなあ、と納得する。


2009年9月6日日曜日

Boys!

時々思い出す、小学校の同級生だった少年がいる。

特別仲が良かったわけでも、好感を持ったやつだったわけでもない。どちらかと言えば、いやなやつだと思っていた。いつも不機嫌で神経質で、皮肉屋だった。

教師の息子で、その父親と仲が悪かったそうだ。十七歳で、結核をわずらい、死んだそうだが、それをいつ、誰から聞いたのかは思い出せない。

いつも不機嫌だったのは、そのころからすでに病気が進行していたからだろうか。

もう一人は、名前すら思い出せない。こちらは高校1年のときのクラスメートだ。隣町の出身なので、小中学校は別だ。

元気が良くて、活発で、本なんか一行も読みたくない、というような感じの、少年だったが、2年になって、成績別クラス分けが始まり、受験勉強がすべて、という雰囲気になると、だんだん元気がなくなり、萎縮し、私の視界から消えていった。普通の少年が普通のまま、萎縮せず生きていけないとは、切ないと思う。

放課後、ひとりいじましく残って、難しい文芸評論を読むような早熟な少年もいたが、どうもそういう子はあまり好きではなかった。