2011年7月24日日曜日

3.11雑感――われらみなアイヒマン

ナチス時代にドイツからアメリカに亡命した政治哲学者のハナ・アーレントは、アイヒマンの裁判を傍聴し、次のようなことを書いたという。

以下、スチュアート・ヒューズ『大変貌』(みすず書房1978年刊)からの引用。

「アイヒマンも彼の同僚も、良心の呵責の奇怪な転倒を行なったのだ。かれらは、『肉体的苦痛をみて生ずる…動物的な憐憫の情』を、『そういう本能を周囲の方へ向けかえる』ことで克服できた。『…“何という恐ろしいことを私はあの人たちにしたのだろう”というかわりに、かれらは、“任務を遂行する上で、私は何と恐ろしいものを見なければならなかったことか”ということができたのである。』ほんのたまにアイヒマンは残虐行為に立ち会ったが、その際にはたしかにかれは目撃したことに心を動かされた。しかしかれは――その他多くのものたちも同様に――、犠牲者に対する『正常な』憐憫の反応を示す代わりに、憐憫に値するのは、負わねばならぬ恐ろしい責任のゆえに、むしろそういうポジションにあるものたちだと、自らに納得させ得たのである。」

今回の福島第一原発のそもそもの設置、そして発生した過去のさまざまなミスは、「残虐行為を行なった」のではなく、結果的に「残虐な行為となることを回避するためになにも行なわなかった」という点で、異なるが。

このような良心の呵責の奇怪な転倒は、責任の所在がヒエラルキーの中に消滅するような官僚制の中では、誰にでも起こりうるような気がする。

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